[Dear...]

   空目恭一は、普段通り桜の木の下のベンチに座っていた。
   隣には何処か眠そうに寄り添うあやめ。
   ……ヒトで無き者でも、眠くなるものなのだろうか。
   不意に、空目はそんな事を思った。
   確かに陽射しは程よく、居心地好い景色が広がる。
   空目は空を見上げた。
   深い色をした空と、ぽっかりと浮かぶ雲。
   陰影と光明の絶妙さが、限りなく異空間を思わせた。
   

     …………平和だった。  
 

   そもそも平和の境界線が何処にあるのかは知らない。
   ただ、こうして『匂い』も感じずひたすら暇を持て余している。


     …………平穏だった。
 

   隣で桜の木を眩しそうに見詰めるあやめ。
   細く頼りなく見える質感の髪が、さらりと風になびく。
   あやめの髪の一房が、空目の鼻腔を擽った。

     …………異界の、懐かしい香り。

   強く心を揺さぶり、どうしても手離し難かったもの。
   それがあやめを欲した理由で、異界を引き込もうとした理由。
   良い思い出では無い筈だった。
   それでも、多分空目にとって一番重要なものなのだ。
   あやめはじっと綺麗な、儚い瞳で空目を見た。
   空虚な空目の眼差しを受け止める。
 
   「……」

   あやめは自己表現を最低限でしか示さない。
   だから必然的に視線だけで会話する事になってしまう。
   他の仲間は多分、理解出来ない。

   「そうか」
 
   空目は呟くと、黒一色の痩躯をベンチから立たせた。
   すると、まるでタイミングを見計らったかのように人影が現れた。

   「今日は“影”君」

   にっこりと、無垢な笑みを浮かべ、『魔女』こと十叶詠子が其処には居た。

   「何の用ですか先輩」

   慇懃無礼な態度で空目は詠子に対峙する。
   詠子は気を悪くした風も無く、人差し指を動かした。

   「駄目じゃない。折角手に居れた『大切なもの』を手離そうとしちゃ」

   指された先には、当然のようにあやめが居た。

   「……?」

   言葉の意味合いが分からず、空目は目を細めた。
   あやめは怯えたように空目の袖を掴む。
   詠子は無垢な微笑みを、確信の笑みへと変貌させた。

   「ほら。また」

   ますますあやめは空目にしがみ付いてゆく。
   ふと。
   空目が動いた。

   「……ふぅん」

   少々つまらなさそうに詠子は頷いた。
   空目は、あやめを背に隠すように一歩前に出ていた。
   あやめすら、驚いていた。
 
   「それが君の答えなんだね」

   口端に笑みを浮かべたまま、それでも詠子は神妙に呟く。
   空目はさも面白くなさそうに言った。

   「先輩の言葉の意味は分からない。
   だが、取り敢えずあやめを渡す気は無い」

   しんと辺りが静まった。

   「うん。構わないよ?私は別に確認しに来ただけだもの」

   詠子は再び無垢な笑みに戻る。
   
   「どんな時が来てもそうしてて?」

   満足したように満面の笑みを浮かべ、詠子は去って行った。
   ひらりと、まだ緑に潤う筈の葉が一枚散った。

   「……」

   空目は再びベンチに座りなおした。
   慌ててあやめも隣に座る。

   「……あやめ」

   「は、はい」

   びくりとあやめは返事をした。
   空目は溜息をついて、ゆっくりとその髪に触れた。


   「少し寝る」

   普段ならけして言わない言葉を言い、行動を起こした。
   あやめの肩口に頭を乗せる。
   瞼を下ろし、暗闇に意思を投じる。
   あやめは最初きょとんと空目を見詰めた。


   「……」

   やがて頬を紅くし、通常よりも身を堅くした。
   石像の如くじっと動かなくなったあやめ。
   柔らかな風が、空気の流れを変える。
   あやめは『それ』を、見ていた。
   そして空目の寝顔を横目で確認すると、微かに嬉しそうに目を細めた。  

   それを目撃した武巳と稜子、俊也と亜紀は一瞬呆けた。
   武巳と稜子は興奮したように囁き合う。

   「どう思う?」  

   「……さぁな」

   冷静な分析を試みる事で平常心を保とうとする亜紀と俊也。
   しかし、二人はそれぞれ異なった理由で動揺し、なかなか上手くはいかなかった。  



   春とも夏とも分からない風が吹く。  

   湿った空気が変動し、波を生む。  

   遠い遠い夢物語は動き出し、やがて大きくうねり出す。

   それでも今はこうして平和を。  

   こうして安穏を。

   それぞれに、それぞれに。

   まだその意を解さずとも。

   春とも夏ともつかない陽射しが注がれる。

   未だ、道筋は判別されることは無い。 



     [word by 燈禾]