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7月10日付けの産経新聞運動面に掲載された写真のコピーが手元にある。 広島市民球場。 延長10回裏、自らのエラーで傷口を広げ、押し出しデッドボールでサヨナラを許した久保田智之に、 ショートの藤本敦士が声をかけている。 ポーカーフェイスを凍らせたままのルーキーが、先輩の声にかすかに反応した瞬間をカメラはとらえた。 -----久保田投手の部分は割愛します スイマセン----- 1995年、阪神大震災が起きた年の春の選抜大会。 開会式で震災の犠牲者に黙祷が捧げられたこの大会で、育英高校の主将を務めた藤本は試練を味わった。 前橋工(群馬)との2回戦。 リードを許した育英は土壇場の9回に3対3の同点に追いついたが、その裏、1死二塁のピンチで 藤本はショートゴロを一塁へ悪送球、サヨナラのホームを許した。 当時の新聞を開くと、《「一球一球を大切にしろと言われてわかっていたつもりだったのに、口先だけだった」》という 藤本のコメントが載っている。 雪辱を期した夏は、県予選で敗れた。 「甲子園に忘れ物を取りにいく」 それから5年後、ドラフト7位で指名された小柄な遊撃手はそんな決意を口にしてタイガースのユニフォームを着た。 「お前、撮影があるのにそんなよれよれのシャツ着るなよ」。 和田豊打撃コーチにからかわれて苦笑する藤本に、マニュアル通りの質問を投げる。 ――忘れ物はもう取りもどしましたか? 「いえ、まだまだです。もし、優勝したら少しは...」 笑顔と、控え目な受け答え。 サヨナラエラーした夜の宿舎、ベンチに入れなかった部員は「お前のおかげでここまで来れたんやから」と言って 彼の肩を叩いた。 そんな人柄だからこそ、「忘れ物」は形を変えず、胸にこびりついたのだろう。 プロでも1年目からチャンスを与えられたが、うまく波にのれなかった。 失敗を怖れ、どうしても消極的になってしまう。 「左投手が出てきたら出番がない、って自分であきらめていましたから」 だが、今年は違う。 「ふっきったんです。大きいのは狙わず、バットを短く持ってレフト方向へ。自分がプロとして生きるにはこれしかない、と」 レギュラーの座を獲得し、打率も3割をキープ。 去年は2割1分台の低打率にあえぎながらオールスターファン投票で高得票、 肩身の狭い気分を味わったが、今年は胸を張れる。 暗雲がたちこめたのは5月下旬。左ひざを捻挫、登録を抹消された。 「一軍に残して欲しい」と首脳陣に訴えた心の底には、かつての悪夢が横たわっていたのかもしれない。 「まわり道」、いや「挫折」と表現してもいい過去が彼にはあった。 「あの時はもう野球はできないと本人も覚悟してたんじゃないでしょうか」 JR西明石駅前で焼鳥屋を経営する父親の和幸さんが振り返ったのは、甲子園での屈辱から1年半後のことだった。 名門の亜細亜大へ進学、1年生からベンチ入りを果たした藤本はその夏、腰に異変を感じ始めた。 ヘルニアが悪化し、ランニングどころか、満足に歩くことさえできなくなる。 野球部はもちろん、大学もやめた。 失意の帰郷。自由のきかない体に心も折れた。藤本は両親に告げる。 「甲子園に連れてったからもうええやろ」 母親の紘子さんはうなずくのが精一杯だった。 地元のソフトボールチームの監督として幼少から息子を鍛えた和幸さんは、大きな病院で治療に専念するように勧めた。 「リハビリを続けているうち、自分には野球しかないと思ったんでしょう。『もう一度野球をやりたい』と言い出したんです」 だが、藤本本人によると、父の証言は正確ではない。 「僕の中では野球をやめる決心をしてたんです。痛くて寝返りを繰り返しているうちに朝がきてしまう。そんな状態でしたから」 プロ野球選手になる。 自分の夢が両親の夢でもあることはわかっていた。 「もうええやろ」というつぶやきは、自らの夢に対する惜別でもあったのだが...。 「でも、父が『もう一回だけ、野球をやってくれ』と言ったんです」 店の常連客に、岡田彰布守備・走塁コーチの知人がいた。和幸さんはその知人にすがる。 カレンダーは11月。 岡田コーチの紹介で藤本が籍を置いたのは滋賀にある甲賀総合科学専門学校だった。 聞き慣れない学校の総監督を岡田の恩師が務めていた。 藤本はのどかな田舎町で「異端」の道を歩みながら、再び夢を追う。 2年後、社会人のデュプロへ。 大阪ドームで開かれた全国大会で、視察に来ていた野村克也前監督に見染められた。 「だから、テレビで野球中継を見ているとほんと人生というか、人の縁って不思議やなって思うんです」と、紘子さんが言う。 サードベースに滑り込み、ユニフォームについた土をはらいながら立ち上がった息子に三塁コーチの岡田が声をかける。 そんな映像を見ると、紘子さんはなんだか胸がつまってしまうのだという。 「まさか、君とここで一緒になるとは思わへんかったわ」 入団した時、藤本は岡田にそう声をかけられた。 「両親の支えや励ましがなければあのまま野球をやめていた」と語る藤本はおどけた調子で続けた。 「でも、タイガースの選手になったし、オールスターにも出場できる。もう、いい加減満足してもらわないと。ねえ...」 7月13日、前半戦の最後となる甲子園での巨人戦は雨で流れた。 先発も予想された久保田は番記者に囲まれても、やはり小さな声で答えている。 「前半戦でよかった試合...。特にないっす。悪かった方を覚えてる?そうっすね...」 彼もまた、「忘れ物」を取りに後半戦のマウンドに立たなければいけない。 広島でのサヨナラ負けの後、星野監督は「あいつが使える投手なんがわかった」と漏らした。 前日の試合で出番のなかった藤本は室内練習場で汗を流した。 控えの沖原が猛打賞の大活躍、レギュラーの座は決して安泰ではないが、表情に焦りの色はない。 「1年を通じて試合に出るリズムが、だんだんわかってきました。前半戦の成績は自信になったし、 後半戦は毎試合、きらりと光るところを見せたいですね」 「自信」という言葉をさらりと口にできるようになった25歳に、あの写真を見せた。 ――どんな言葉をかけたんですか? 「まだ先があるぞって。僕もちょっと前まではルーキーでしたけど、あいつみたいに凄いことは何もできなかった。 だから、お前、まだ先があるんだぞって」 おそらく自らの未来も重ねたのだろう。 背番号「9」が少し大きく見えた。 |